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学習問答集2019

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0 なぜ問答集を書くのか

最近、学習科学に関する本や資料を集中的に読んだ。自分の感じたことと考えを初歩的に整理したいが、骨組みのしっかりした文章にすると一冊分の容量が必要になるかもしれない。自分にはまだ遠く及ばない。この領域の研究は初歩的に五年計画で、この文章を良いスタートとしよう。

1 なぜ学習という話題に関心を持つのか

私的な理由は二つある。一つは、自分が人工知能などの複雑な技術を学ぶときに多くの困難に遭ったこと。二つは、自分の子どもに身をもって示す経験を与えたいこと。もっと大きな視点から見れば、人間の学習の仕組みは現在の機械学習よりはるかに複雑だ。脳科学、認知科学、心理学などの発展に基づいて、学習科学はいくつかの成果を上げたが、より多くは未知であり、しかもこれらの限られた成果も有効に普及していない。医学と同じで、学習における個人の体験は重要だ。だから習俗や民間療法は、科学の結論よりもしばしば生命力を持つ。プログラマーは学習の重要性を最も感じやすい職業の一つだ。新しい技術が次々と現れ、その一行一行のコードの背後には、おそらく反復作業をする誰かの代替がある。インターネットが情報の格差をますます平らにした後、富豪ランキングに成績優秀者がますます多く現れるのを我々は見る。これは認知の優位が情報の優位を取って代わったことの一つの写しだ。高得点を取る、大金を稼ぐという功利的目的であれ、真理を追う喜びであれ、学習は必須の修行だ。

2 学習は学生だけのものか

読書と学習を、学校で教育を受けること、高得点を取って卒業証書を得ることと同一視するのは、学習への最大の誤解だ。「愚かな」人工知能を実装したことがあれば、どの子どもも学習の天才だと分かる。しかし制度化された教育の落ちこぼれは、学習の初心と情熱を消しやすい。制度化された教育の成功者も、社会で失敗し、「読書無用論」の典型にされることがある。多くの人の進歩は勤め始めの数年で止まる。最後の大規模な学習は、仕事に適応するために強いられたものだけだ。彼らが親になると、自分の知識水準はもう停滞しているのに、わが子の成績優秀を望み、教育訓練機関の「月給五万でも子ども一人育てられない」というステマ記事の中で不安になる。しかし学習は本質的に、人として生まれた以上のある種の本能にすぎず、一般に言う読書は、学習の道筋の一つにすぎない。孔子は言った、三人行けば必ず我が師あり。孔子はまた言った、学びて時にこれを習う、また説ばしからずや。私が彼よりうまく言えるはずがない。

3 学習に関する観念のうち、最も最も重要な一点は何か

最も重要なのは、知能と能力に対する「全体理論」を捨て、「漸進理論」を受け入れることだ。簡単に言えば、知能と能力は生まれつきで変えられないと信じるのではなく、学習によって高められると信じることだ。天才と凡庸、高IQと低IQ、賢いと愚か、という二分法は、人の進歩への最大の害悪だ。人間に生来の差異があることは否定しないが、常人の努力の程度では、たいてい才能と比べる段階にすらない。すべての人の能力が一本のスペクトルをなすなら、誰もが自分の位置を持つ。それは二分でもなく、固定でもない。誰もが自分の能力の天井に突き当たる。天才的な科学者も例外ではない。彼らも一生かけて一つの問題が分からないことがある。もし生まれつき能力が劣っていて、それが変えられないと信じるなら、能力が上がるはずがない。逆に生まれつき能力が優れていて、それが変えられないと信じる人は、天井に突き当たり、困難と挫折に遭うと、自分のIQと能力を疑い、避けがたく失敗するか逃避する。これが「小聡明あれど大智慧なし」ということだ。異なる信念を一生持ち続けることは、天と地ほどの差になる。しかもこれは単なる信念ではない。脳科学はとうに、人の神経細胞がずっと新生しうることを証明している。

4 努力が重要か、方法が重要か

これは当然、偽の問題だ。答えはもちろん両方とも重要だ。しかしより深い問題は、どんな努力が正しい努力かということだ。伝統的な観念では、学習は厳粛なものとされ、正座して背筋を伸ばし、頭を梁に吊るし錐で腿を刺すのが正道とされた。成績が良いのにあまり努力しているように見えない者には、天資が良いと褒め、その天資を無駄にするな、もっと努力しろと励ます。逆に、努力しているように見えて成績は平凡な者には、その努力を惜しまず褒める。成績が悪く努力もしない落ちこぼれよりは、いつもましだ。学習素材を繰り返し読み、本に線を引き、きれいなノートを取ることは、科学的研究によって無効と証明されたよくある学習法だ。こうした方法に共通する特徴は、学習者にかなりの時間を使わせ、資料の上に留まる努力をさせることだ。どんなに明晰で美しいノートも、自分の頭に転化できなければ無用だ。役に立つ方法はすべて主体性の原則に基づく。学んでいるものを本当に理解しようとする努力には、少しの自己欺瞞もあってはならない。無知に打たれる感覚はつらい。独りよがりの努力に隠れるのは心地よい。しかし楽に学べる方法など、そもそも存在しない。

5 なぜ試験が重要なのか

最も一般的で最も有効な学習法の一つが試験だ。試験を学習成果を検証する道具とだけ見なし、点数を唯一の追求目標とし、点数至上主義に走るか、素質教育を大いに語って試験を避けるか——それが試験という道具への最大の誤解と浪費だ。第一に、試験は「もう覚えた」という幻覚を消す究極の武器だ。教材やノートを繰り返し読むと、必ずこの幻覚が生じる。第二に、試験は学習内容の想起を強制し、記憶と理解を定着させる絶好の方法だ。良い教師はさまざまな手段で学生を試す。事前テスト、授業中テスト、事後テスト。目的は学生を順位付けすることではなく、学生に自分の記憶を引き出させ、印象を深め、差を見つけさせることだ。正式な学習でなくても、たとえば専門と関係ない本を読むときも、試験の手段を十分に使える。最も簡単には、一章読み終えたら本を閉じ、自分にいくつか問いかける。いま読んだ素材は主に何を述べていたか。これらの見解に賛成か。自分の既存の知識や経験とどんなつながりが持てるか。賛成なら、実際の生活や仕事でどう使うか。

6 読書と学習が重要なのに、なぜ本の虫がいるのか

なぜ多くの道理を分かっていながら、それでもこの人生をうまく生きられないのか。道理の問題ではなく、自分の問題だ。読書と学習を麻雀のような娯楽と見なすなら、本の虫になるのも悪くない。しかし進歩を求めるなら、読書と学習は始まりにすぎず、終わりではない。本の虫は本棚に何冊あるか、読書の速さ、年間の読書冊数に熱を上げ、知識をひけらかすことに熱を上げ、中身のある知識をどれだけ得たかに熱を上げる。しかしどれだけの知識と観念が自分の頭に根を下ろしたか、それらが完全で自己整合的で進化し続ける体系をなしているか、どれだけの観念が実践に移されたかには関心を持たない。曾国藩は兵を率いて戦える書生で、毎日日記を書いて自己反省した。反省したのは、実践活動で自分の理念をどう貫くかということだ。紙の上で得たものは常に浅く、この事を究めんとすれば必ず躬行を要す。古人よりうまく言えるはずがない。孔子と曾国藩が毎日自己反省する必要があったのに、なぜ我々には不要なのか。

7 練習すればするほど、よく学べるのか

一万時間天才理論は広く流布した観念で、その背後にある「意図的練習」の理論も誤解の多い理論だ。努力は必ず報われるというのは心安らぐ話だが、有効な練習は単純な繰り返しでは済まない。科学研究も天才個人の経験も示すのは、有効な練習は極めて主体性の高い練習でなければならないということだ。まず退いて進むべく、十分に細かいモジュールに分け、モジュール別に、弱点に狙いを定めて練習する。次に、その練習も単純な繰り返しではいけない。変化に富み、互いに織り交ぜる必要がある。これらの研究成果は直観に反する。人は繰り返しの練習のほうがよく身につき、変化と織り交ぜの練習は効果が劣るとつい感じる。これは克服しがたい幻覚だ。本当に有効な練習は脳力を高度に消耗し、長時間続けることは不可能だ。

8 なぜ本を読んでも覚えられず、理解できないのか

最新の記憶理論は、記憶の検索は記憶の初回生成より重要だと考える。誰もが一度見たら忘れないことはできる。問題は、記憶の断片が脳内に散らばり、再組織化して検索できないことだ。唯一の方法は、それらの間に多くの結びつきを作ることだ。ちょうど、もともと遅れた村落が四方八方に通じるセメント道路を敷けば、もう遅れた村落ではなくなるように。体系化されていない知識には多くの小技がある。たとえば語呂合わせを作る。「大の月の覚え方、七の前は単、七の後は双」。体系化された知識で最も重要なのは自分の知識体系を築くことだ。すべての新知識は、既存の知識と経験になるべく多く結びつける。明らかに、これは簡単で気楽な過程ではない。多くの人に試験前の詰め込み復習の経験があり、時に悪くない成績を取る。しかしこれも幻覚だ。苦しい努力を経て自分の体系に取り込まれなかった知識は、やはり本に返される。

9 少し睡眠を削って多く学ぶことはできないか

成功者の神話の一つは、彼らは三、四時間しか眠らないということだ。しかし彼らは飛行機で寝不足を補え、オフィスにベッドを置ける。彼らは意思決定層として脳力活動の強度が低い。彼らは単に嘘をついているのかもしれない。もしあなたが高強度の脳力活動者なら、たとえば大学院生やコードを書くプログラマーなら、睡眠を犠牲にすることは、早く死ぬ可能性のほかに、学習効率を深刻に下げる。脳科学は、神経シナプスの形成には十分な睡眠の過程が必須だと示す。新しい神経シナプスを形成できない学習はすべて時間の浪費だ。現代人の生活習慣はますます夜更かしに傾き、子どももこの文化的変遷の影響を受ける。そして子どもが宿題の負担に押されて睡眠不足になるのは、脳科学への嘲笑だ。

10 落ちこぼれはどう生まれるのか

日本の映画『ビリギャル』では、主人公は大学受験を目指すが数学の基礎がひどく悪い。塾の先生の方法は小学の算数から教えることだった。これは誇張ではなく、実際のモデルがいる。制度化教育の欠陥は、大多数に向けた基準を定めざるを得ないことにある。8歳ではどの程度の言語を身につけるべきか、9歳ではどれだけの数学を知るべきか。そうすれば必ず落ちこぼれる者がいる。落ちこぼれた者はさまざまな負のレッテルを貼られやすい。12歳になってようやく心が成熟して数学に適したとしても、もうその機会はない。たいていそうした子どもは、自分が学習活動にもう何の参加感も持っていない。欧米にも子どもの具体的な状況に応じた異年齢混合の学習クラスがあるが、12歳の子どもが小学三年の数学を学ぶとなれば、親も子どもも面子が立たない。こうした場合、塾こそ最良の出口かもしれない。どの領域の知識も、まず遅く、次に速く、基礎を固める必要がある。学習は家を建てるようなものだ。万丈の高楼も平地から起つ。浮砂に高台を築くな。古人よりうまく言えるはずがない。

11 なぜ強く念じ続ければ、必ず反響があるのか

妊婦がお腹に子を宿しているとき、夫は街を歩いてより多くの妊婦に気づくようになる。ベンゼン環の構造を必死に考えていると、夜、自分の尻尾を噛む蛇の夢を見るかもしれない。一つの問題に全力で取り組んでいるとき、たとえ止まっても、頭の中にはバックグラウンドプロセスのようなものが残る。感覚はひとりでに関連情報を集め、夢はさまざまな案を試す。突破口やインスピレーションは自然に生じるが、ゼロから来るのではない。全力を尽くした後に緩んだ脳にだけ訪れる。研究によれば、天才もたいてい自分の専門領域で突出しているにすぎず、その閃きや神がかり的な筆は、無数の刻苦の努力の後の自然な贈り物にすぎない。金持ちになりたいのに、そのために毎日考える時間が十分もないなら、どうして空から餡餅が落ちてこようか。強く念じ続けた後の反響は確率事象だが、その確率は高められる。

主要参考図書:

以下は本文で参照した書目である(リンク先はいずれも中国語版のページ)。